山下洋輔(6)
2007-09-28


栗山さんとの共同作業は即ち、ガーシュインとグロッフェだったんですね。ガーシュインが作ったピアノ譜でグロッフェがオーケストラのアレンジをしたというような話を聞いていて、それが大きなヒントになっていたのは間違いないです。ここにも「ラプソディ・イン・ブルー」の影響があるんですね。すべては「ラプソディ・イン・ブルー」から始まっているのかと今さらながら驚いています。栗山さんに、ピアノ譜に書いてあるものを見てもらい、あるいはオーケストラのパートについてアイディアがあれば出来るだけ詳しく伝えました。

夢中になってやりたいことを全部たたき込んだんですが、出来てみると四楽章あった。普通、協奏曲というのは三楽章だったんだと気づいてももう遅いんですね。

やがて2000年の正月が近づいてきて、指揮の佐渡裕さんとスコアを見ながら打ち合わせをしました。佐渡さんとは何度か「ラプソディ」をやっていて気心が知れています。パリのサル・プレイエルという伝統ある会場でラムルー交響楽団と出会わせていただいたこともあります。ところがその佐渡さんが実は体調を崩されていた。リハの直前になって代役の登場という事態になりました。これが金聖響さんだったんですね。協奏曲第一番「エンカウンター 」はなんともドラマチックな誕生をする運命にあったようです。聖響さんと初対面で驚いたのは、お顔が私の息子にそっくりだったことで、リハ、本番を通じて時々凄い顔でこちらを睨みながら指揮をされましたが、なるほど息子に叱られながら仕事をするのはこういうものかと経験させていただきました。

その初演はおかげさまで大成功で、その後、この曲は同年4月に大阪国際音楽祭で京都市交響楽団を佐渡裕さんが指揮してリベンジをしてくださり、2002年には札幌交響楽団で小松一彦さん、同じ年に洗足学園大学オーケストラを秋山和慶さんが振ってくださって東南アジア・ツアー、さらに2004年には佐渡さんのご紹介と指揮でイタリア・トリノでRAI国立放送交響楽団で二日間演奏されました。この時は第一部ヤマシタで第二部はチャイコフスキーの五番だったので、思わずコンマスの譜面台に並んで乗っていた両方の楽譜を写真に撮ってきたほどです。そして、2005年には因縁の東京オペラシティで佐渡さんがNHK交響楽団を指揮してこの曲を演奏し、初演の急病リタイアのリベンジが完全に果たされたのでした。

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